ただ"それをしているだけのありがたさ。"
価値を感じられないものに価値を見いだすことで、自由に生きられると考えたら、どうだろうか。
二日に一回は考えているテーマである。
例えば、ただ、本を読むという行為は無価値なものなのか。
もしかしたら、そのイミもない行為から自分だけの価値観が形成されていくかも知れないし、本を出版したくなったり、記者のようなことをやってみたくなるかもしれない。
何が自分の身に起こるのかは己も含めて一切合切、誰一人として分からぬ問題だと思う。
ぶっちゃけて言うと、
2017年という概念に生きている私たちにとって、もはや、新しいものなんて思いつかないし、生みだすことなんて厳しいのが現実だと思う。
アルバイトしかり、留学しかり、就職、受験など。
今なんてネットを使えば不可能なことなんてないってぐらいになっちゃってるから、
反抗したくなって何もしない・何もしたくない思考回路に染まりきってきてしまったんだとも感じる。
あるSNSを見ると少しだけすごいと思っている方が、"本を読むことをお金に変える"方法について、分かりやすくまとめていてくれた。もちろん僕も、見た。
その記事を見て感じたことは、素直に、
「あっ、なんかいやだな。」というちょっとした不快感であったのだ。
あれだけ、というか自分の好きなことを仕事やお金に換えてそれで生活していけるのであれば、これ以上望むものはないってぐらいに、幸せなんだと思う。
なのになぜか、不快感を覚えてしまった自分に対して、ドロップキックを浴びせたい気分でいっぱいだ。
実はそこまで好きじゃないってことなんか。
だとしたら、オレにはもう、何も好きなことはないぞ!!と、ネガティブモードに入りそうになる。
今までと違うことと言えば、"必要以上に焦っていない"ってことだろうか。
これはヤバい気もしてるし、ヤバくないとも思っている。
自己を啓発する気ももう、そんなに起きてこないのだ。
というか、正直な気持ちはゆっくり山に籠って自然のなかで暮らしたいというセミリタイア系人間に成ってしまっているのだ。
別にそこに対して悲観的になってはいない。
むしろ、楽観的というか、
これからの人生をそのような場所で過ごすには、何から始めていけばいいのかを考える日々がここ数日の僕の活力になっている。
もちろんまだまだまだ、自意識過剰になる部分があるし、人に興味がない瞬間も多々ある。それでも、
自分と社会のつながるであろう箇所は、必要最低限直していかないといけないし、
生きていけないだろう。
ただ、自分にとっての"それだけ"は、こだわって大事に育てていきたいな。
まるで、小学三年生の夏休みの宿題のアサガオ観察のように。
この行為もぶっちゃけて、イミなんてないし、楽しくもない気がする。
このアサガオ観察をすれば、
理科の点数が良くなってお母さんにお小遣いもらえる!!となれば、
子どもたちはそこに価値を見いだせるんだろうなと、無意味なこと・モノに対して、
擁護したくなっているのだ。
よってこれから僕は、どんどんとムダなことやイミがないコトに対して、逃げずにやっていってみようと静かに闘志を燃やしている。