S.Yの深いブログ

日常生活の中で感じたことをそのまま吐き出します!

読書

本を読む行為、それは得てして集中力を

必要とするものだ。

本のなかに書いてあることを実践しようと

すると、「労力」が必要になってくる。

 

そう、自分を動かして変容していくために

欠かせないプロセスであるのだ。

 

アウトプットしなくてはいけないと巷では

噂になっているが、実際はどうなのであろうか。確かに行動は起こしてこそ、初めて

「代価」が得られる。

 

僕であれば、昨日デートした女の子だ。

会話の間が持たないという経験は、

織り込み済みだが、実は、沈黙が問題では

ないのだと最近思えるようになってきた。

 

それは、

広い「心」。僕の基本性質として、

底知れぬネガティブマンがある。

 

いろいろと細かい部分が気になってしまうのだ。

・やべっ、10秒ぐらい間ができた。

・リアクションうすいかも………。

・共感できてなくね、これ……。

って具合に。

 

フィギュアスケートもびっくりの審査基準

である。

当然、この調子ではうちとけられるなんて

あるわけがない。

 

デートを「頭」で行ってしまっていたのだ。

「あちゃー、これはもうヤバい。」そう

思いそうになる自分が確かに存在していた。

 

この時、「心」の自分が存在していたら、

・そんな細けーこと気にすんなって。

・なんだかんだあったけど、笑顔が生まれた瞬間もあったし、たぶん大丈夫っしょ。

・今さ、どんくらい沈黙してたのか数えてたんだけど、10秒も宇宙と交信してたんだわ(笑)

とかありとあらゆる言い訳が思いつくのだ。

 

ってこれ、「頭」で考えてることじゃない??。

今、気づきました。

「何が心じゃい、ボケ。」

で、改めて考えてみると、

 

「感情」がいい感じにアガッているときが

世間でいう「ポジティブ」なんじゃないかと

思うんですよ。

ということは、この「感情」が高まった時を

思い出してその「感情」を本に書いてあることと結びつけて、実際に動いてみればいいんじゃないか。

 

例えば僕だったら、生き物に触れることが好きだってのとモテる趣味=乗馬らしいから、

試しに今度、乗馬体験でもしてみるかと。

 

「心」では「労力」をする際にかかる「代償」を柔和して、「感情」を良い方向に

持っていけるものだと感じています。

 

よし、僕もオムライスという言葉で、

次のデートにつなげてみよっと。(笑)。

(※若干、いや、けっこう無理やり感がある

「頭」の使い方ですよね……。)

 

でもその子、オムライス好きらしいし、その子の好きなアイドル番組でこないだ、

 

オムライスが出た回があったから、試しに

行ってみるか!って軽いノリで誘ってみよっと。

将来の進路

今日は暑い日でござんしたね。とリクルート

スーツに身を包まれながら、新宿駅内を

早歩きする女学生一人。

 

どうしてこんなにも、スーツは暑いのか。

熱中症になってしまったらどうしてくれるんだ。と、責任を問う毎日。

 

やっと、一本来たTELはと言うと、就職課の

女性の、「サトウさん、最近の就活の

調子はいかがでしょうか。」と言う、

 

催促連絡である。

 

 

「あぁ、もう。全て辞めにしたい。。。」と

心の声が聞こえてくるような来ないような。

 

そんな就活生を横目に僕はと言うと、平常

運転である。つまり、

 

「一人街ブラロケ」を敢行しているのである。ルールは一つ。

 

「都会の人ごみの中に紛れる自分」を意識

して歩くこと、ただそれだけ。

 

すると、見えてくるものがある。

 

自分とは何なのか。

何をして生きていきたいのか。

一体、何がやりたいのか。

 

徹底的に自己を洗い出すことに今、

取り組んでいる最中であるのだ。

 

頭ではなく、「心」で行う、いわゆる

「自己分析」とはこのことを言うのでしょう。

 

ぜひ一度、新宿へ遊びにおいでなさいませ。

「恋心って浅い・重いってのが色々と

あるんですね。」ってのを、ある小説を

読んでいて感じることが多々ある。

 

正直、恋に対して、怖がっていた自分が

いるんですよ。

というか、いまだにちょっと怖がって

いるんですよ。

 

川上未映子さん著の「すべて真夜中の恋人たち」の中での台詞にイチイチハッとさせられてしまう。

中でも、「自分以外の誰かに別に何かを

求めない代わりに、自分も誰からも求め

させないっていうかね。」なんて言葉に

ドキドキさせられてしまう。

 

言葉の前と後の部分で、感じたことが違った

んですね。

 

攻めない代わりに攻めさせない。

これは逃げなのでは?と思うでしょう。

 

いやはや、全くもってその通りです。

 

戦国時代で言うと、籠城一辺倒の戦い方

なんすよね。

自城に籠り、助けを求めるスタイル、江南

スタイル。

しかししかし、

 

現代に至っては、個人個人が既に自立できる

環境があり、一人一人が各々お忙しいん

ですね。

 

SNSなんて便利なものが登場してきて、

逆にSOSが埋もれる社会になっていると

したら。

こんなに悲しいことはないですよ。

 

てことは、何か得てみたいもの・人が

見つかった、見つかろうとしていたら、

 

まずは「逃げ道」をどうにかして工夫して、

つくってみるんですよ。

 

いきなり、誰かに何かを求めるなんて

そんなの、さすがに鬼が過ぎるでしょうって。

 

例えば、お酒が好きだったら

自分で作ってみる。

梅酒でもハイボールでも、何でも良い。

 

作ったものを、同じお酒好きの人をネットで

探して、一緒に飲んでみる、とか。

 

これで自分から呑み友がほしいってのを求めてることになりますし、お相手側もきっと、

 

あなたのハイボールを求めてくれる。

 

そういうものだとしたら、

少しは勇気が沸いてきやしませんか。

僕は本屋が好きだ。

僕は本屋が好きだ。

なぜ好きなのかと言うと、

小さい頃から好きだからだ。

 

今はもう、

どこに眠っているか分からないが、

僕の実家には恐竜図鑑を開いて

 

何の悪意もなく寝ている僕がいる。

 

そんな写真がある。

 

すでに僕は悪意なき幼少期の頃から、

本というパワースポットに参拝していた

わけだ。

 

出雲大社明治神宮を筆頭に、

誰が知っていて定番化している場所。

 

 

それが「本屋」なのかもしれない。

 

何回も見たことがある本もあれば、

「お初だね!」「いやー、どーもどーも。」と、脳内一人対話が繰り広げられるのだ。

こればっかりはもう、何にも代えられない

ので自分でも諦めている所。

 

 

でも、個人的に

世の本屋、書店の店員、店長、オーナーさんに伝えておきたいことは、

 

 

「本屋たるもの、神聖であり、無音である

ことが最も良い。」という事実である。

要は、中途半端にBGMを流したり、

TVを置いたりしてほしくないのである。

 

 

これをされると、

頭のなかに溜まっている集中力が著しく

持ってかれてしまうから。

 

最近の「この世の全ての物は、

デジタル化現象」はもはや、

 

30分たってやっと、

エンジンがかかり始め、

 

「さぁ、これからがやっと勉強だよー。」と

意気込んでいる時に、

「ご飯だよー。」と声をかけられるぐらいに

始末が悪い。

 

よって僕は、

音楽もデジタル機器も何もない、

ただただ静かな空間に存在している、

 

初めまして、の本たちに挨拶をしたいのだ。